生き方探しの旅へ2部(1) 僕はニート
- MSN-Mainichi INTERACTIVE No.17 -
日本に戻り、謙介とのカウンセリングが再開された。謙介は具体的に何をやるという目標が持てないまま高校を中退していた。親とは、退学をめぐり「学校をやめる」と主張する謙介と「もう少し学校に籍を残しておいたら」という両親の意見がかみ合わず、もめたが最後に両親が折れて中退した。
「先生、どうでもいいのですが、僕はニートになったのですか?」
「ニートか、確かに、このまま学校にも行かず、働きもせず、職業訓練も受けなければ、今、流行のニートになるね」
「そうか、僕はニートか、一昔前に皆が言っていたプータロウか。同じ、意味かも知れないけれど、響きがなんか違いますね。」(笑)
「どう違うの?」
「ニートって言うと、明るい感じがするけれど、プータロウっていうと落ちこぼれって感じします。そうそう、先生が書いていたイタリアの学校の話、面白く読みました。僕がイタリアに生まれていたら、ニートにはならなかったと思いました。小さい時から自主性が重んじられ、自分のやりたいことが何かを考えて生きていけば、大きくなって何をやりたいのか悩まずにすみますね。友達関係も日本とは違って楽しそうですね」
「確かに、学校を訪ねると友達関係も日本とは違って見えたよ。日本では中学生や高校生になればなるほどグループも小規模になり、友達同士でも他人に合わせて同じような行動をとったり、同じような意見を言うよね。その点、イタリアの子ども達は自分の意見を遠慮なしにいい合う。例え、友達同士意見が違っても、決して妥協しないで論争する。論争後も「意見は意見、友情は友情と考えているから人間関係には響かない。日本人は意見が対立し、言い争いになったら、友達関係にヒビが入るのではないかと思いすぐに妥協するよね。そんなことはないみたいだよ」
「そういう人間関係の方が僕にとっては生きやすかったかもしれない。人間関係で臆病にならなかったかもしれない」
「一般社会の経験が何もなく。子どもが勉強だけをして、大人になった学校の先生の授業は価値観が受験勉強だけに偏っていた。あの教育のやり方は子ども達がまともな社会観や職業観を持てません。その点、イタリアの学校教育は全然違うみたいですね」
「謙介は御三家といわれる進学校でトップクラスの成績を修めていた。そのままいけば、東大⇒官僚あるいは大手企業のエリート幹部が保証されていたみたいなものだったのに中退したのは、引っ込み思案の性格もあるけれど、偏った社会観が身に付いてしまうのが、怖かったからかなぁ」
「それも大いにあったけれど、両親の価値観も学校の先生と同じだった。自分がない分周りや人に合わせ、学歴や成績という形にだけ、こだわる価値観が嫌だった。自分はそんな大人になりたくなかったのがほんねかもしれません。もう少し、時間をかけてみないと本当のことはわからないかもしれませんけれど」
「なるほどね。学校教育は人格の完成とか陶冶とかいうけれど、実際は違うよね。そして、システムも現代社会には合わなくなっているよね。今の教育は終身雇用や年功序列のあった頃のシステムで、あれでは職能意識や社会で役立つ技術力は身につかないよね。しかし、企業はバブル経済崩壊後、国際競争力を維持するため、人件費を抑える雇用システムに変え、若者でも即戦力を期待するようになってきた。就職難、派遣社員、契約社員など雇用が不安定なった。学校教育と一般社会の間に若者にとって大きな壁ができ、若者は立ちすくんだり・自信をなくしたり・つながりを失う感覚になるのも無理ないよね」
「それを僕は先取りして、自分探しを始めてしまったのかもしれません」
「それもそうだけれど、多くの若者が生き生き働け、幸福になるめにはどのような社会にしたらいいのか。自分と社会を考え、大人自身も生き方探しを真剣にしなければならない時代だと思うよ」
文責 牟田武生