『村の学校』のすすめ
- MSN-Mainichi INTERACTIVE No.11 -
親殺し、子殺しは、今に始まったことではないが、この言葉を「聞きたくない」と思うのは私だけでないはずだ。本来ならば、愛し合い、助け合うべきである親子関係だが、最近報道された「ひきこもり青年の親殺し」は、相続争いなどから起こるトラブルではなく、親の自分に対する期待の重さを払拭するための殺害と思われる。親も子も、哀れでならない。
ひきこもりは、社会生活の不適応から起こる。一度ひきこもり状態が始まると、近所の人や同級生の視線が気になり、「偶然に会ったら、何か言われるのではないか」と思い、外に自由に出られない。知っている人が誰もいない町に行くと普通に過ごせることもある。専門家は、こういった状態を「被害念慮」という。被害念慮とは「外に出ると、きっと嫌なことに遭うのではないか」という先取り不安のことだ。
この先取り不安から「買い物に行きたいけれども、行けない」というアンビバレンツ(両面価値)な感情が起こり、自分自身で何か決めようとすると、なかなか決められない優柔不断な思考が起こる。ひきこもりの人たちは特徴的に、この被害念慮とアンビバレンツな感情に悩み苦しむ。
それゆえ、ひきこもりの人たちは、知人がいる地域が苦手だ。それなのに、多くの行政やNPОは、地域社会の活性化と青少年問題を同じ地域内でとらえ、ひきこもりの青少年のための居場所を全国各地に作り始めている。このような場所では、援助者の活動は活発だが、肝心のひきこもりの子どもたちは、動いていないのが実情ではないだろうか。
ひきこもりが長引くと、青年は就労に、児童生徒は学習に、それぞれ自信を喪失していき、「どうせ何をやってもダメなんだ」という無気力に支配されていく。長引けば長引くほど対応は困難を極める。無気力が定着する前に、葛藤が起きているうちに、思い切って環境を変えてみてはどうだろうか。親から離れ、援助者の受容がある共同生活から、学校や職場体験に通う。過疎地の学校や職場ならではの温かさで、不安は消えていくのではないだろうか。
そんな取り組みを私は長野県平谷村で企画している。平谷村は長野県南部に位置し、人口660人。近年、観光開発で成果を上げ、財政的には潤ったが、過疎化と少子化は克服できず、学年によっては複式学級になっている。そんな中で、村長の塚田明久さん(53)は、「子ども一人一人の思いを大切にした教育をしたい」と厚生労働省に相談を持ちかけ、私たちNPО「教育研究所」が紹介された。村の人や、学校、地元企業の温かい支援を受け、来春には公設民営の寮(仮名「平谷こどもの家」)を開設する予定で間もなく工事が始まる。
ひきこもりの子どもたちは、「今の生活に何も不自由を感じていない」と言うが、その言葉の裏には、「学校や社会で仲間や友だちを作り、青春を謳歌(おうか)したい」という願望が必ず潜んでいるはずだ。
この準備に、心が弾む。
長野県平谷村の取組は、村長がその後、選挙の負け、計画は流れてしまいました。
全国的に大変めずらしい取組で注目されていましたが、村民の理解が得られずに
大変残念でした。
文責 牟田武生